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Channel: Danelectro研究(「だのじゃん」改めDano研)
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リンク・レイのダンエレクトロ(5)

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リンクが2005年に亡くなって間もなく、私はリンク・レイについての素晴らしいファンサイトである、 リンク・レイ・ドット・コムを運営しているグレッグ・ラクストンからの電子メールを受信した。グレッグはメリーランド州に在住のフレッド・ホワイトと名乗る紳士から、リンク・レイが所有していたオリジナルのダンエレクトロ・ギターを持っている、と主張した内容の電子メールを受信したので、私の考えを聞くために、そのメールと画像を転送してくれたのだった。

有名人が所有していたギターの真偽を確かめようとするときはいつでも、彼らのストーリーとそれにまつわる一連の事実を検証することが常にベストなやり方である。100回のうち99回は話の出所に筋が通っていない。楽器自体が信憑性に欠けるか、ストーリーが疑問視されてバラバラになるかである。

このストーリーはバラバラにならなかった。リンク・レイは1950年代後半から1970年代前半までワシントンD.C.とメリーランド州南部に住んでいて、ギターを持っているフレッド・ホワイトもその地域に住んでいた。ホワイトが言うには、1962年にボビー・ハワードとの間で大量のジャズアルバムとギターを交換したとき、ボビーは彼に、それがリンク・レイのギターだと言ったという。ギターはひどく痛んでおり、フレッドによれば、ボビーはそれをキャンディ・アップル・レッドに塗装する計画があったが、そこまで手が回らなかったと話したという。楽器はすべてオリジナルのままでパーツの交換はなく、ダンエレクトロ・ギターリンの製造年である。(ダンエレクトロの4桁のシリアルナンバーは年を示す最後の桁と最初の2桁でその年の週を示すことで日付を確定できる。3桁目の目的は不明だが、モデルナンバーを示しているかもしれない)ポット・デイトも1958年である。

その男のストーリーは私には理にかなったものだった。ボビー・ハワードは1960年代のほとんどの間、リンク・レイのバンド、レイメンのメンバーだった。伝説によれば、ハワードは見た目が良く、タフなストリートキッズだったという。一般に受け入れられている裏話には、リンクの兄であるヴァーノン・レイが、公園のベンチで寝ていた、基本的にホームレスだった彼を見つけたというものがある。リンクは彼を庇護し、バンドで演奏するコツを教えた。レイメンに数年間在籍した後に、キッド・アンド・ザ・ポニーズというような名前でレコードをリリースし、ハワードはボビー・アンド・ザ・ハイボーイズという短命に終わったグループを、ブリティッシュ・ウォーカーズというブリティッシュ・インヴェイジョン的なローカルバンドに変えて、D.C.エリア限定のヒット曲をいくつか出した。ハワードは「たくさんの人々を怒らせた」後、1960年代後半にフロリダへ謎の転居をした。ある情報によればハワードは沼地に姿を消し、それ以来目立たないようにしているという。

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