4
ダンエレクトロはシアーズ&ローバックのカタログ通販用に、シルバートーンブランドで手頃な価格の実用的なギターを製造する会社だった。ダンエレクトロのギター用の資材には、伝統的なギター製造に使用される高価なメイプル、アッシュ、ウォルナットではなく、メゾナイトやパインが含まれていた。社長で社名の由来でもあるナット・ダニエルはギタープレイヤーではなかったので、典型的な楽器メーカーには考えもつかないようなギターやアンプを設計する天才だった。ダンエレクトロの「リップスティック」ピックアップはこの創造性の一例である。ダニエルは口紅用の金属チューブを大量に購入し、その中に収まるギターのピックアップを設計した。ダンエレクトロのリップスティックピックアップはこれまでで最もシンプルに設計されたピックアップにも関わらず、非常にうまく機能し、そのトーンと汎用性で今日まで高く評価されている。
ダンエレクトロの膨大な数の楽器は学生向けの廉価モデルだったが、同社はプロ用のモデルをつくろうと試みた。3ピックアップのU3、ギターとベースのダブルネック、有名なスタジオギタリストのヴィニー・ベルによって設計されたアーティストモデル、奇妙なルックスのギターリンは同社が高級市場を狙った例だった。改善点には廉価モデルに見られる「スケートキー」チューナーの代わりに密閉されたクルーソン・デラックス・チューナーが含まれ、全体的により優れた構造になっている。ギターリンの販売価格は150ドルだったが、廉価モデルは100ドル未満で販売された。この価格設定と信じられないほど演奏しにくいという事実は、ギターリンがダンエレクトロのカタログの中で最も売れない楽器であることを意味した。売れたものはほとんどなく、今日ではさらに少数しか見ることがない。
リンクは1958年から1960年頃までのいくつかのライヴ写真でスプロのデュアル・トーンを演奏していて、この時期はデュアル・トーンとダンエレクトロを行きつ戻りつしていたようだ。デュアル・トーンに続いて、リンクはギブソンのバードランドをしばらく演奏し、それからギブソンのファイヤーバードとSGを手に入れた。これらにはすべて高出力のハムバッキング・ピックアップが搭載されていて、1960年代半ばの彼のたくさんのレコードで、その下品で粗野なサウンドを聴ける。最後に、1960年代後半になると、リンクは2本のヤマハを演奏し始めた。最初はホロウボディのエレクトリック、ヤマハSA-15D、それからヤマハSG-2、このジャズマスター風の日本製雑種ギターに彼は「スクリーミング・レッド」とあだ名をつけた。リンクは彼の人生が終わるまで、スクリーミング・レッドを断続的に使い、晩年にはSGとフェンダー・ストラトキャスターの安いリイシューを交互に使用した。リンクのクローゼットの中には、たくさんのギターがあるようには見えなかった。上のパラグラフのリストは1955年から2005年の間に撮られたすべての写真にあるギターのおおよその詳細である。
伝説的なカルトギタリストの機材を何年にもわたって徹底的に研究することは嘲笑に値するようなことかもしれないが、あなたがこの本を読む理由があるように、私は自分のことを説明する必要性を感じない。少なくとも、面倒なことには関わらないのが私の趣味なのである。
ダンエレクトロはシアーズ&ローバックのカタログ通販用に、シルバートーンブランドで手頃な価格の実用的なギターを製造する会社だった。ダンエレクトロのギター用の資材には、伝統的なギター製造に使用される高価なメイプル、アッシュ、ウォルナットではなく、メゾナイトやパインが含まれていた。社長で社名の由来でもあるナット・ダニエルはギタープレイヤーではなかったので、典型的な楽器メーカーには考えもつかないようなギターやアンプを設計する天才だった。ダンエレクトロの「リップスティック」ピックアップはこの創造性の一例である。ダニエルは口紅用の金属チューブを大量に購入し、その中に収まるギターのピックアップを設計した。ダンエレクトロのリップスティックピックアップはこれまでで最もシンプルに設計されたピックアップにも関わらず、非常にうまく機能し、そのトーンと汎用性で今日まで高く評価されている。
ダンエレクトロの膨大な数の楽器は学生向けの廉価モデルだったが、同社はプロ用のモデルをつくろうと試みた。3ピックアップのU3、ギターとベースのダブルネック、有名なスタジオギタリストのヴィニー・ベルによって設計されたアーティストモデル、奇妙なルックスのギターリンは同社が高級市場を狙った例だった。改善点には廉価モデルに見られる「スケートキー」チューナーの代わりに密閉されたクルーソン・デラックス・チューナーが含まれ、全体的により優れた構造になっている。ギターリンの販売価格は150ドルだったが、廉価モデルは100ドル未満で販売された。この価格設定と信じられないほど演奏しにくいという事実は、ギターリンがダンエレクトロのカタログの中で最も売れない楽器であることを意味した。売れたものはほとんどなく、今日ではさらに少数しか見ることがない。
リンクは1958年から1960年頃までのいくつかのライヴ写真でスプロのデュアル・トーンを演奏していて、この時期はデュアル・トーンとダンエレクトロを行きつ戻りつしていたようだ。デュアル・トーンに続いて、リンクはギブソンのバードランドをしばらく演奏し、それからギブソンのファイヤーバードとSGを手に入れた。これらにはすべて高出力のハムバッキング・ピックアップが搭載されていて、1960年代半ばの彼のたくさんのレコードで、その下品で粗野なサウンドを聴ける。最後に、1960年代後半になると、リンクは2本のヤマハを演奏し始めた。最初はホロウボディのエレクトリック、ヤマハSA-15D、それからヤマハSG-2、このジャズマスター風の日本製雑種ギターに彼は「スクリーミング・レッド」とあだ名をつけた。リンクは彼の人生が終わるまで、スクリーミング・レッドを断続的に使い、晩年にはSGとフェンダー・ストラトキャスターの安いリイシューを交互に使用した。リンクのクローゼットの中には、たくさんのギターがあるようには見えなかった。上のパラグラフのリストは1955年から2005年の間に撮られたすべての写真にあるギターのおおよその詳細である。
伝説的なカルトギタリストの機材を何年にもわたって徹底的に研究することは嘲笑に値するようなことかもしれないが、あなたがこの本を読む理由があるように、私は自分のことを説明する必要性を感じない。少なくとも、面倒なことには関わらないのが私の趣味なのである。